バスシバ・W・スミス

1 May 2019

第4代中央
扶助協会会長

1901-1910年

第4代中央扶助協会会長のバスシバ・W・スミスは,人生で3つのものを愛した。家族,家の切り盛り,そして主である。この3つは,生涯の終わりまで彼女の支えとなった。

夫と子供たちに献身し,主の業を行っていると認識していたバスシバは,家族を強めることに自らをささげた。夫のジョージ・A・スミスは預言者ジョセフ・スミスのいとこで,結婚したときに十二使徒定員会で最も若い使徒だった。彼は頻繁に伝道に赴いたため,バスシバは彼への愛をしばしば手紙にしたためた。あるとき,彼女はこう書き送った。「わたしにとって何よりも楽しいのは,あなたの深い,美しい声を聞きながらいすに座り,あなたの豊かな知識の宝に耳を傾けることです。」1彼女は子供たちも同じように愛した。「子供たちは歌でわが家を明るくし,彼らの喜ぶことはわたしも喜びました。彼らを誇りに思うと同時に,彼らがいることをほんとうに喜びました。」2

こうしてバスシバは子供たちを養うことに大きな充足感を見いだした。バスシバの書簡や自伝には,家族のために作ったシャツ,じゅうたん,カーテン,クッション,石鹸,マット,キャップ,枕カバー,シーツ,おくるみ,ボンネット,靴下,おむつ,ろうそく,ドレス,エプロンなどはもちろん,世話した動物,耕した畑,見舞った病人について細かく記載されている。3あるとき,彼女は「何でも手作りするようあらゆる努力を払った」と書いている。4

当然ながら,家庭と自立を愛するこの心は,後に中央扶助協会会長として奉仕していたときにも保っていた。その結果,扶助協会は後に母親学級講座として知られるような資料を初めて出版した。その資料は子育てや手作り品,結婚などのテーマを採り上げていた。5加えて,扶助協会の小麦をユタ州に住むアメリカ先住民やカリフォルニア州サンフランシスコ地震の被災者や中国の飢饉被害者に分けた。6

何よりも,「スミス会長は女性たちが霊的に自立しなければならず,それを実現できる場所は扶助協会だと強く考えていた。『男性と同様に女性も,生涯を通して最も価値ある知識を得るために勤勉に研究することをやめないことです。』」7

幼少時代

9人兄弟の8番目であったバスシバ・ビグラー・スミスは1822年5月3日,ウエストバージニア州シンストンの近くでマーク・ビグラーとスザンナ・オグデン・ビグラー夫妻の元に生まれた。300エーカーある一家のプランテーションで手芸や乗馬を学びながら比較的裕福な生活をしていた。しかし1837年に宣教師が玄関に現れたとき,生活が一変した。バスシバはこう書いている。「彼らが教えるのを聞いて,その教えを信じた。モルモン書が神の記録であり,ジョセフ・スミスが神の預言者であることを信じた。祈りの答えとして受けた主の御霊によって,それらは真実であることを知った。」8一家全員が改宗した。その後に起きた迫害を逃れて,一家はイリノイ州ノーブーの聖徒たちに加わった。

結婚と家族

1841年7月25日,バスシバは家族を教えた宣教師の一人,ジョージ・A・スミスと結婚した。夫妻には2人の子供が生まれた。そのうち,夫はバスシバの祝福を受けながら,さらに5人の「善良で徳高く,高潔で若い」9妻をめとった。これについて彼女はこう記している。「一夫多妻制の教義が神から来ていると …. …心の底から納得している。そして絶対日の栄えを受け継ぎたいと決心しているので,わたしは福音のすべてを受け入れるべきと感じた。」10バスシバは1910年9月20日に死去した。

重要な働き

バスシバが19歳のとき,1842年にイリノイ州ノーブーで扶助協会が設立されたときその場にいた最年少の姉妹だった。彼女は中央扶助協会会長を務めるのと同時期にソルトレーク神殿のメイトロンも務めた。神殿で奉仕することは自分にできる最も大切な務めの一つだと感じていた。11