エライザ・R・スノー

30 April 2019

第2代中央
扶助協会会長

1866-1887年

第2代中央扶助協会会長であったエライザ・ロクシー・スノーはその生涯をささげて主に仕えた。あるとき,彼女は「御父の御心を行うことが生きがいです」1と語った。それでも,エライザは自分だけがそのような生き方をすればいいと思っていなかった。すべての女性が主の目に価値ある存在であることを認識し,それに基づいて行動することを望んだのである。彼女はこのように述べた。「どんな姉妹も一人ではありません。神の王国を地上に築くために多大な貢献ができるのです。」2

エライザがそのように確信していたのは自分のうちに燃える証があったからだけでなく,カートランドに始まり,ミズーリ,ノーブー,ソルトレークシティーへと,一生涯を通して教会の女性たちに仕えてきたからである。エライザは,姉妹たちの心の内や直面した試練,成し遂げた業績,そして良い時も悪い時も,家族や互いを静かに引き上げてきたことを知っていた。「その働きが自分の家の中でしか知られていない姉妹,そして恐らくそこでも正当な評価を受けていない姉妹がたくさんいます。しかし,それでもかまいません。その働きが神に受け入れられており,どんなに簡単な務めであっても忠実に果たしているのであれば,気落ちする必要はないのです。」3

家族を強めることと時間を賢く使うことはエライザにとって何よりも大切であった。「皆さんにとって第一の務めは,家庭での責任となるようにしてください。皆さんが賢く家庭を管理すれば,社会的な責任を果たす時間を見いだすでしょう。……一つ一つの責任を果たそうと努めるときに,皆さんの能力が増していくのを感じ,成し遂げられることの多さに驚くことでしょう。」4

エライザは作詩をする時間も取った。非常に聡明で啓示にあふれた女性であった彼女は,500編余りの詩を残した。その多くは教義的な洞察だけでなく,人々に大きな慰めをもたらす。今日の教会の讃美歌集に収められている彼女の詩「高きに栄えて」の3番について考えてみよう。

御父と呼ぶべく
みたまにならう
地の鍵受くまで
理を知らざりし
み親はひとりか
深く思えば
永遠の真理は告ぐ
天に母ありと5

幼少時代

エライザは1804年1月21日,マサチューセッツ州ベケットでオリバー・スノーとロゼッタ・スノー夫妻のもとに生まれた。7人兄弟の2番目の子供である。彼女の弟のロレンゾ・スノーは後に教会の第5代大管長となった。スノー家族は学問を尊ぶ一家で,エライザは優秀な生徒だった。1835年に教会に入るまでには,詩の才があることで有名になっていた。エライザのサイン帳にはイギリスのビクトリア女王,ビクトル・ユーゴ,スサン・B・アンソニー,アブラハム・リンカーン大統領などのサインが連なっている。6

改宗と結婚

スノー家族はエライザが育ったオハイオ州マントゥアで回復された福音を聞き,バプテスマを受けた。1835年春にバプテスマを受けて間もなくして,エライザはオハイオ州カートランドに移り,預言者ジョセフ・スミスの娘や姪に勉強を教えた。その間に預言者ジョセフに対する深い愛と,預言者の神聖な召しに対する熱い証が培われた。71842年6月29日,彼女は預言者ジョセフに結び固められた。ジョセフの殉教は彼女に深い悲しみを与えた。その後,エライザはブリガム・ヤング大管長の妻の一人となった。ブリガムは彼女を高く評価していた。エライザには子供はいなかった。エライザは1887年,ソルトレークシティーで死去した。

重要な働き

エライザが会長を務めていた間に,初等協会と若い女性の相互発達協会が組織された。Woman’s Exponentが創刊され,福祉の原則が導入された。女性たちは穀物を育てて貯蔵し,協同組合店舗を開き,絹を製造した。扶助協会は医師や看護士,助産師となれるよう女性を医学校へ送った。その見返りに,これらの女性たちが卒業後に戻って他の人々に専門技術を伝えた。エライザはデゼレト病院の初代院長を務めた。