ルイーズ・イェーツ・ロビソン
第7代中央
扶助協会会長
1928-1939年
第7代中央扶助協会会長のルイーズ・イェーツ・ロビソンは,自分が扶助協会の中央会長会に召されたとき,何かの手違いだと思った。物質的な富も,正式な教育もなく,恥ずかしがりやで注目を浴びるのを避けた。
ルイーズの娘は次のように述べている。「任命を受けるために母が〔ヒーバー・J・〕グラント大管長の執務室に行ったとき,きっと大管長が彼女の能力について誤った情報を受けたのだろうと確信していました。ですから,大管長の求めることが何であっても喜んで最善を尽くすけれど,ほとんど教育を受けておらず,お金も社会的な地位もないに等しいことを知ってほしいと話しました。扶助協会の女性たちが指導者に望むような模範ではないことを母は恐れたのです。母は最後にこう言いました。『わたしはただの卑しい女です。』グラント大管長はこのように答えました。『ルイージー姉妹,教会の85%の女性はあなたと同じです。彼女たちの指導者としてあなたを召したいのです。』」1
結局のところ,ルイーズはまさに教会の女性が必要としていた人物だった。大恐慌が始まり,ルイーズは経済的な苦しみを抱えた姉妹たちの必要を理解し,強い共感を持っていた。また,彼女たちに知恵を貸すこともできた。「彼女はほとんどの時間,教育やお金のない姉妹に心を向け,自分も同じような状況にあることを実感した。」2第9代中央扶助協会会長のベル・スパフォードはこう語っている。「ロビソン姉妹はボランティアの慈善奉仕を強調しました。『必要とされているところ行ってください。できることをしてください。』それが彼女のテーマでした。」3
「もしわたしたちが御業の半分しか行わないなら,また義務感から行うなら,喜びを得ることはないでしょう。けれども,自分がこのブドウの木の枝であると感じ,その枝の一部になることがふさわしいと天の御父に認められ,目の前にある御業を実行するなら,喜びを得るでしょう。」4
幼少時代
後にルイーズとして親しまれるサラ・ルイーズ・イェーツは1866年5月27日,ユタ州スキピオで生まれた。両親のトーマス・イェーツとエリザベス・フランシス・イェーツはミラード郡のラウンドバレーを開拓するためにこの地に召された。ルイーズは5人兄弟の2番目の子供であった。開拓者の環境に生活していたルイーズは毛糸を作り,編み物をし,麦わら帽子を編むことを学んだ。5
教育と結婚
14歳のルイーズと姉はユタ州プロボのブリガム・ヤング・アカデミーで1年間学んだ。その後,ルイーズは6ヶ月間のドレス作りコースを専攻した。これは後年,神殿衣・埋葬衣部を管理する際に役立った。伝道から帰還したばかりのジョセフ・ライマン・ロビソンと知り合ったために,学校生活が短くなった。二人は1883年10月11日に結婚し,6人の子供が生まれた。子供が成人した後,ルイーズは大学の公開講座を受講し,教育不足の埋め合わせをしようとした。一日が始まる前に2時間勉強できるよう,何年もの間,朝4時に起床した。6彼女は1946年3月30日に亡くなった。
扶助協会の重要な働き
母親が家庭にいられるよう助けることの大切さを理解していたロビソン姉妹は1937年,ユタ州ソルトレークシティーでモルモン手芸品店を開いた。姉妹たちが手作り製品を売る場所となった。彼女は中央扶助協会会長として初めてヨーロッパを訪問した。ルイーズのいちばん好きな言葉「歌う母親は幸せな家庭を作る」にちなんで,扶助協会の聖歌隊が”Singing Mothers”(歌う母親たち)として知られるようになった。7イリノイ州ノーブーで最初の扶助協会モニュメントを発案した。扶助協会の公式な色として金と青が採用された。しかしルイーズは最も大切だと痛感していることについて,こう述べた。「扶助協会の活動はきちんと記録されていますが,人の力では扶助協会の会員が行う愛ある奉仕をすべて記録することはできません。8