「一軒一軒家々を巡ることもできる」

Matthew S. McBride
10 July 2012

1897年2月,エリザベス・マキューンは英国,フランス,イタリアを訪れる準備をしていました。観光をする予定でしたが,エリザベスのこの旅には霊的な目的もありました。

Elizabeth McCune

1898年3月11日,LDS教会の大管長会は定例の打ち合わせの集会で,広範囲に影響を及ぼすことになる重要な決断を下しました。当時,ウィルフォード・ウッドラフ大管長とその顧問であるジョセフ・F・スミスおよびジョージ・Q・キャノンは,女性の宣教師を要請する手紙を世界各地の伝道部会長から受け取っていました。1 その中の1通は,ヨーロッパ伝道部会長会のジョセフ・W・マクマリンからのものでした。彼は「英国では姉妹たちは注目を集めるが,長老たちは耳を傾けてもらえないことがある」と報告しています。手紙にはさらにこうありました。「大勢の活発で聡明な女性が英国で伝道するよう召されれば,すばらしい成果が生まれるでしょう。」2

「手紙にはさらにこうありました。「大勢の活発で聡明な女性が英国で伝道するよう召されれば,すばらしい成果が生まれるでしょう。」;

ジョセフ・W・マクマリン
ヨーロッパ伝道部会長会

大管長会は議論の末,独身の姉妹宣教師を召し,聖任し,教会の歴史上初めて,福音を宣べ伝えるための権能を与える証書を付与するという結論に至りました。この動きは,LDSの伝道の業と教会の女性にとって新しい時代の幕開けとなりました。

エリザベス・マキューンがいなければ,マクマリン兄弟がその手紙を書くことはなかったでしょう。

1852年に英国で生を受けたエリザベス・クラリッジは,ユタ州ニーファイの田舎で育ちました。16歳のときに,父サムエルは,後にネバダ州南部の砂漠となる,荒涼とした「ぬかるんだ」伝道部に入植するようブリガム・ヤングから求められました。数年後に北部に戻ったエリザベスは,幼なじみで将来を嘱望されていたビジネスマン,アルフレッド・W・マキューンと結婚しました。ビジネスで次々と成功を収めたため,アルフレッドとエリザベスはほどなくユタ州の最も財力のある一家の座に上りつめました。.

しかし,エリザベスはこの富のために犠牲を払うことを余儀なくされました。次第に仕事に専心するようになったアルフレッドは,教会から足が遠のいてしまったのです。このできごとに深く心を痛めたエリザベスは,夫の忠実な伴侶であり続けるとともに,夫がいつか信仰を取り戻すことができるよう祈りました。エリザベスにとって,富は神からその管理を託されたものにすぎませんでした。エリザベスは一家が教会に多額の寄付をするよう取り計らい,助けを必要としている友人や家族を支援しました。また,彼女に与えられている時間を使ってワードの青年女子相互発達協会で奉仕し,熟練した系図家にもなりました。

ヨーロッパへの旅

1897年2月,マキューン一家はヨーロッパへの大がかりな旅に出発する準備をしていました。エリザベスの故郷である英国とフランスとイタリアへの旅でした。一家は観光に多くの時間を費やす計画を立てていましたが,エリザベスはこの旅を,系図探求を進める機会とも捉えていました。

「福音の原則を説明するとき,あなたの頭脳は天使のように明晰になるでしょう。3

ロレンゾ・スノー,エリザベス・マキューンに祝福を与える

この系図探求を霊的な取り組みと捉えていたエリザベスは,旅に出る前に神権の祝福を求めてロレンゾ・スノー大管長のもとを訪れました。スノー大管長の言葉は,もう一つの霊的な目的について示唆していました。「ほかのすばらしい約束に加え,大管長は『福音の原則を説明するとき,あなたの頭脳は天使のように明晰になるでしょう。』と約束したのです。」4 エリザベスはヨーロッパの旅での出来事を通して,この言葉の本当の意味を驚きとして深く理解するようになるのでした。

旅の当時,エリザベスは45歳で,7人の子供の母親でした。下の4人の子供5 が旅に同行しました。エリザベスは,当時英国で伝道していた19歳の息子レイモンドとの再会を楽しみにしていました。英国に到着したマキューン一家は,イーストボーンで人気のリゾートタウンに家を借りました。その家は「広く,部屋数も多く,広大で美しい敷地に建っていました。」6エリザベスはレイモンドとその地域で働く長老たちを家に招きました。

エリザベスと娘のフェイは,定期的に長老たちがイーストボーンの浜辺の遊歩道で開く街頭集会に参加しました。人々の注意を引くために賛美歌を歌ったり,長老が説教をしている間,本や帽子を手に持ったりしました。7 集会が終わると,長老たちは関心のある人々をグランジ・ガーデンズ4番地にあるマキューン一家の仮の家に招きました。人々は例外なく驚きの表情を見せました。なにせ,モルモンの長老たちは普通とても質素な家に住んでいたのですから。

エリザベスは長老たちとともに街頭集会や個別訪問を行ううちに,8 自分が人々の軽蔑の眼差しを恐れずにやりすごすことができることに気づきました。しかし,もっと積極的に福音を宣べ伝える役割を果たしたいと願いました。エリザベスはこのように語っています。「時折,自分の口で話したいと熱烈に望みました。女性である彼女は若い男性よりも人々の注意を引き,よい成果を生むことができるのではないかと考えたのです。」一方で,「その特権を与えられ,成功を心から望んだとしても,まったくの失敗に終わるかもしれない」と心配していました。彼女の予想よりも早く,そのような機会が訪れました。

「悪名高いジャーマン」

1880年代と1890年代に,ウィリアム・ジャーマンという名の元末日聖徒 が英国中を巡りながら,自分が出版したばかりの反モルモンの本を宣伝して回っていました。ジャーマンの,教会に対する容赦ない攻撃とユタ州における生活についての中傷はセンセーショナルな内容だったため物議をかもしました。しかし,ジャーマンが元教会員という「内部者」であったために,彼の言葉はあたかも本当であるかのように受け止められました。要するに,彼は教会の評判を著しく落としめたのです。9 モルモンの女性とその役割についてのジャーマンの主張は特にあからさまで,伝道部の指導者は若い男性宣教師の力では太刀打ちできないと感じていました。

1897年の終わりに,半期ロンドン大会の時期が近づいていました。ロンドン周辺の聖徒 たちは10月28日にクラーケンウェルタウンホールに集まり,地元の指導者から指示を受けました。エリザベス・マキューンは午後の部会に出席しました。ホールは「聖徒 たちと見知らぬ人々であふれていました。著名な人も何人かいました。」ルロン・S・ウェルズ会長と顧問のジョセフ・W・マクマリン兄弟が会衆に話をしました。エリザベスは二人の話に心を動かされ,「全聴衆がそこに現れた力により改宗するにちがいない」と感じました。

マクマリン兄弟は「ジャーマンとその娘たちが,モルモンの女性について流布しようと躍起になっていた虚言」について語りました。「彼らは,モルモンの女性は無知で粗悪な状態でユタ州に幽閉されていると語っていた」のです。続けて語られた言葉にエリザベスは驚きました。「ご主人とお子さんとともにヨーロッパ中を旅してきたユタ州出身の女性が,この大会のことを耳にして今日この場に集ってくださっています。今晩,マキューン姉妹にユタ州での経験について話していただきたいと思います。」10

エリザベスは後に,その言葉を聞いて「死ぬほど驚いた」と率直に語っています。マクマリン兄弟はその場に集った全員に,夜の部会に友人を誘い,「ユタ州から来た女性」の話を聴くよう勧めました。エリザベスはこのように続けています。「長老たちは,わたしのために信仰と祈りを捧げてくれると言ってくれました。わたしも天の御父に助けと支えを求めて熱烈に祈りました。」そして,謙虚にこのように言い添えています。「わたしは心の中でこうつぶやきました。『ユタ州にいる善良な女性の一人がこのすばらしい機会を利用してくれたら,どんなにいいかしら。』」11

「ユタ州から来た女性」

夜の集会の時間が近づくにつれ,ホールの席が埋まり始めました。この大会の書記はこう記しています。「ホールには席が追加され,二階席も開放されていたが,会場は満員になり,入場を断らなければならないほどであった。」12うわさが広まり,好奇心のある人々がこのユタ州から来た女性の言葉を聞こうと集まったのでした。

「わたしたちの夫は妻や娘を誇りに思っています。夫たちは,女性が皿洗いや赤ん坊の世話をするためだけに造られたとは思っていません。むしろ,妻や娘が集会や講義に出席できるようにし,あらゆる機会を捉えて教育を受け成長できるようにしてくれます。わたしたちの教会は,妻は夫と同等の地位にあると教えています。」

エリザベス・マキューン

エリザベスはこう振り返ります。「最後の祈りを捧げた後,わたしは立ち上がって聴衆に話をしました。……自分はユタ州で育ったので,その地域のことは隅々まで知っている,そしてそこに住むほとんどの人も知っていると話しました。また,アメリカやヨーロッパへの広範囲にわたる旅についても話し,ユタ州のモルモンの女性ほど高く評価されている女性を見たことがない,と言いました。;

さらにこのように話しています。「わたしたちの夫は妻や娘を誇りに思っています。夫たちは,女性が皿洗いや赤ん坊の世話をするためだけに造られたとは思っていません。むしろ,妻や娘が集会や講義に出席できるようにし,あらゆる機会を捉えて教育を受け成長できるようにしてくれます。わたしたちの教会は,妻は夫と同等の地位にあると教えています。」13

エリザベスが大会に参加し話をしたことは,大きな影響を与えました。一人のモルモンの女性のこの簡潔な説教は,ジャーマンが作り出した教会に対する悪評判を払拭するうえで,長老たちの最大限の努力にも増して貢献したのです。集会後,彼女は何人かの見知らぬ人から声をかけられました。ある人はこう言いました。「教会の女性がもっとここに出てくれば,大いに善をなすことができるでしょう。」もう一人はこう言いました。「わたしはずっと,モルモンの女性に会って話を聞きたいと思ってきました。奥さん,あなたの声と言葉には真理がこめられていました。14 エリザベスはこうまとめています。「この出来事により,姉妹たちには大いなる業を行う力があることが分かりました。」

その集会の所産に注目したマクマリン会長は,次の日曜日にノッティンガムの大会に同行するようエリザベスを誘いました。エリザベスは息子のレイモンドとともにノッティンガムで話をしました。話のテーマは,「ユタ州の人々の状況」でした。15 エリザベスはこう振り返ります。「それ以来,あらゆる支部から,訪問して集会で話をするよう依頼されました。わたしが来ればホールは人でいっぱいになる,と言われました。」16

イタリアへの出発の日が迫っていたため,それ以上話をすることはできませんでしたが,種はまかれました。マクマリン会長は,彼女の努力が「偏見を静める手立て」となったと確信していました。マキューン一家が去って間もなく,彼は大管長会に手紙を書きました。英国からユタの教会幹部に宛てたほかの個人的な書簡にもこれと同じような内容が書かれていました。「ユタの女性がこの地で述べた証が大きな影響を与え」,「昔からの誤った考え」が公平な見方に変わったと記されていたのです。17

計画を実行に移す

1898年3月11日に大管長会が姉妹宣教師を召すという決定を下してから数週間のうちにその話は広まりました。青年男子・青年女子相互発達協会管理会のパーティーで,ジョージ・Q・キャノン管長はこのように発表しました。「優れた賢明な女性を伝道地に召すことが決定しました。」18 続けて,エリザベスをはじめとする姉妹たちの貢献について話しました。ジョセフ・F・スミスも青年女子の指導者たちにこの「シオンの娘たちが行うべき偉大な業」について話しました19

「聡明で良識のある女性を伝道地に召すことが決定しました。」

ジョージ・Q・キャノン
大管長会第一顧問

1898年4月の総大会で,キャノン管長はさらに多くの教会員に向けて,定期的に姉妹宣教師を召すという決定について発表しました。キャノン管長は「教会員の姉妹と出会えたことをとても喜び,自らも教会に入った女性」について話しました。彼女はその姉妹について「知的で,抑圧された貧しい奴隷のようには見えなかった」と述べています。それは間違いなく,出会った女性たちが,その領域の男性と同じくらい知的で,ふさわしく,上品だとその女性が感じたためにほかなりません。」キャノン管長は,この姉妹たちは儀式を執行することはできないが「証を述べることができます。教え,印刷物を配り,主イエス・キリストの福音を広める助けをすることができます」と述べています。20

1898年4月1日,アマンダ・イネス・ナイトとルーシ・ジェーン・ブリムホールは,教会史上初めて,教会公認の独身女性専任宣教師として任命されました。二人ともヨーロッパ伝道部に割り当てられ,4月21日の到着の3日後には,支部の集会や街頭集会,大会で話を始め,「本物の生けるモルモンの女性」と称賛されました。二人は「教会員について風変わりな考えを抱いている見知らぬ人々」を訪れる務めに特に焦点を当てていました。21 ナイト姉妹とブリムホール姉妹は,今も続いている従来の方法で宣教師として奉仕し,何万人もの姉妹宣教師の先駆けとなりました。.

エリザベス・マキューンはその後,さらに伝道に携わる機会を得ます。22 彼女は後に先駆者としての経験についてこのような見解を述べています。23>: 「海外にいる間,わたしは真理の知識を御父の子らに伝えたいという燃えるような望みを常に心に抱いていました。どこへ行っても,人々と会話をする機会があるたびに,念頭にあったこの最優先事項について話すようになりました。しばしば,福音を耳にしたことのない人々にそれを宣言する特権にあずかりました。時折こう自問しました。『宣教師でもないのに,どうしてこのような気持ちを抱くのだろう。』ある日,わたしは女性が宣教師として召される日はそう遠くないと娘に言いました。わたしはしばしば,若い男性のように,一軒一軒家々を巡り,人々と静かに宗教について話し合い,心からの証を伝える務めを神から託されているように感じました。」24